Ⅲ 視察報告

2.「三池炭鉱・三川抗跡」

(2)「三池炭鉱・宮原抗跡」(大牟田市「大牟田の近代化産業遺産」ホームページ参照・引用)

「三池炭鉱・宮原抗跡」案内板.jpg「三池炭鉱・宮原抗跡」案内板次に視察したのは「三池炭鉱・宮原抗跡」です。
「宮原抗・竪坑」跡全景.jpg「宮原抗・竪坑」跡全景
「宮原坑」は、「七浦坑」および「宮浦坑」の採炭が深部に至ったことで、坑内排水の効率が悪化したことから、「七浦坑」の南870mの採炭区域内に設定した試錘の場所に、新竪坑を開坑したことに始まります。

当初、明治初期から官営「三池炭鉱」の操業開始以来、旧来の主力坑であった「大浦坑」、「七浦坑」、「宮浦坑」等の命脈を伸ばすべく、排水の用を兼ねる坑口としての役目が開さくの計画でした。

操業後は揚炭・入気・排水・人員昇降その他を兼ねる主力坑として年間40~50万トンの出炭を維持していました。

「宮原坑」は第一竪坑(揚炭、入気、排水が主)と第二竪坑(人員昇降を主)の2つの坑口からなり、排気・排水・揚炭を兼ねる機能分担がされていました。1901(明治34)年11月に設備が完成しています。

第一・第二竪坑とも に、当時世界最大級の馬力を誇ったイギリス製デビーポンプを2台ずつ備え、当初の計画どおり「七浦坑」の排水難を解消しました。さらに、その排水能力により、より深い場所での採炭が可能となりました。

1898(明治31)年の出炭開始からすでに年間27万トンの出炭量を記録し、1908(明治41)年には「三池炭鉱」(「大浦坑」、「宮浦坑」、「万田坑」、「宮原坑」)の中で、「宮原坑」がもっとも出炭量が多く、三池炭鉱全体の28%(431,618トン)を占めていました。大正期には最大で出炭量51万トンを超えるにまでなり、明治から大正期を通じて平均して年間40万トンの出炭を維持しました。

しかし、昭和初期の恐慌、不況下、「三池炭鉱」は「四山坑」、「宮浦大斜坑」からの採炭に中心が移り、それまでの主力坑であった「大浦坑」、「勝立坑」、「七浦坑」とともに、「宮原坑」も1931(昭和6)年に閉坑となりました。

また、「宮原坑」は石炭採掘の歴史とともに、「囚人労働」の歴史もあります。

「宮原坑」は近くの三池集治監に収監された囚人を採炭労働に使役させていた「囚人労働」の炭坑でした。

「囚人労働」は、すでに1873(明治6)年から明治政府主導の下、官営「三池炭鉱」時代から行われており(最初は龍湖瀬坑の坑外運炭作業)、1883(明治16)年に開庁した「三池集治監」は、まさに「三池炭鉱」の労働力不足を補うために、全国的にも早い段階に設置された刑務所です。

1931(昭和6)年、囚人労働が女性や子どもの坑内労働とともに禁止されるまで続きました。



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