県議会質問

2018年3月8日

 次の項は、「福岡県の明治維新150年の取り組みについて」です。

 本県では、「沖ノ島と関連遺産群」、「明治日本の産業革命遺産」に関連した観光振興のための新年度予算案で今議会に提案されています。しかし、「明治維新150年の取り組み」に関する予算立てはありません。

 政府は、本年が、1868年の「明治元年」から起算して満150年の年に当たるとして、明治以降の歩みを次世代に遺(のこ)すことや、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要なこととして、「明治維新150年」に向けた関連施策を推進することとしています。

 鹿児島では、NHK大河ドラマ「西郷どん」の放映の影響もあってか、「明治維新150年」は大いに盛り上がっています。また、お隣の佐賀県でも「明治維新150年事業」が大々的に執り行われています。

 「明治維新150年」については、全国的に見れば開明派=維新・明治新政府側による、いわゆる〝薩長土肥〟、そして京と江戸でのお祭りのような雰囲気にあります。

 しかし、福岡はといえば、「明治維新150年」のお祝いどころか、「明治維新と福岡って、何か関係あるの?」という声さえ聞かれます。

 そうした要因の一つには、幕末から明治維新にかけ、たとえば坂本龍馬、高杉晋作、勝海舟、吉田松陰、伊藤博文、木戸孝允(きどたかよし)、山縣有朋(やまがたありとも)、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀(こまつたてわき)などといった、いわゆるNHK大河ドラマに取り上げられるような人物が福岡から輩出されていないということもあり、本県においては「明治維新」への関心、盛り上がりはいま一つのように感じられます。

 そして、この明治維新をけん引したのは薩長同盟で、その薩摩と長州を結びつけた、いわゆる「薩長同盟」の立役者は坂本龍馬となっていますが、実は、その「薩長同盟」文を起草したのは黒田藩士の月形洗蔵(つきがたせんぞう)という人物であります。

 1865年2月13日、京から追われた尊攘派(そんじょうは)の五卿は太宰府の「延寿王院(えんじゅおういん)」に入ります。以来、太宰府は勤王派の策源地となり、幕末政局の表舞台に登場することになります。

 その時、秘密の会合場所は、薩摩藩定宿(さつまはんじょうやど)「松屋」でしたが、この「松屋」は「太宰府天満宮」参道の梅ケ枝餅屋となって、いまも残っています。

 そして、この「松屋」で月形は西郷隆盛と会合を重ねます。そして、この年の5月25日、坂本龍馬がこの「松屋」にやって来るのですが、坂本龍馬や西郷隆盛が太宰府に来たことは、あまり知られていないようです。

 さて、ここで、龍馬は月形から薩長同盟を提案され、起草文を提示されます。明治維新への大きな転換点は「薩長同盟」と言われますが、この下交渉である薩長和解は黒田藩の筑前勤皇党が主導した結果で、加藤司書、早川勇なども、その代表的人物です。そして、その後の歴史は、ご承知の通りです。

 このように、黒田藩士、また筑前勤皇党には尊王攘夷、維新をリードする人物が多くいたのですが、同年1865年10月、黒田藩による勤王派への弾圧が始まり、切腹(勤王派で家老の加藤司書ら7名。)、斬首(月形ら14名。)、流刑その他を含めて処罰は140名に上り、高杉晋作を平尾山荘でかくまった野村望東尼(のむらぼうとうに)は姫島へ投獄となります。いわゆる佐幕派による勤皇派弾圧「乙丑の獄(いっちゅうのごく)」です。薩長同盟の路線を築いた筑前勤王派はここに壊滅してしまいます。

 その後、歴史は福岡県に不遇を強いります。明治維新当時、福岡藩(秋月藩、東蓮寺藩(直方藩):福岡藩支藩)、豊津藩(千束藩:小倉藩支藩)、中津藩、久留米藩、(松崎藩:久留米藩支藩)、柳河藩、三池藩の6藩がありましたが、筑前勤皇党を弾圧した黒田藩は、「贋札事件(がんさつじけん)」があったとはいえ、維新政府から全国に先駆けて藩取り潰し、「廃藩置県」が断行され、1871年・明治4年、11月14日、福岡県、小倉県、三潴県となり、1876(明治9)年に現在の福岡県境が確定します。

 明治新政府樹立後、近代化を急ぐ政府は、「廃藩置県」、「秩禄(ちつろく)処分」、「徴兵制」、「廃刀令(はいとうれい)」など領主制解体の政策を相次いで強行します。そのため、幕藩時代の士族の地位と生活が激変し、彼らは封建的特権を奪われて大量に没落することになります。

 しかも、維新後は〝薩長土肥〟出身者が新政府で重用され、人材登用されます。そのため、慢心した政府並びに政府高官は専制的傾向を帯び、腐敗状況も現れたので、没落した士族の反政府気分は益々高まっていきます。

 1876(明治9)年に入ると、反政府状況はいっそう深刻になります。
 「地租改正」に不満を抱く農民は、茨城、三重、愛知、岐阜、堺(現在の大阪府の一部および奈良県)などの各県で大一揆を起こし、政府に衝撃を与えます。

 他面、熊本「神風連の乱(しんぷうれんのらん)」、福岡県「秋月の変(乱)」、山口県「萩の乱」など、各地の士族が相次いで反乱を起こしますが、彼らは西郷の決起を期待しており、西郷は好むと好まざるとにかかわらず、士族の反政府運動のシンボル視されます。

 全国の士族(不満藩士)らの明治政府に対する反感、不満が渦巻く中、1873年の「朝鮮使節派遣」をめぐる政府分裂(いわゆる「明治六年の政変」)で西郷隆盛、板垣退助らが下野すると、これに続いて鹿児島や高知出身の近衛兵多数が辞職・帰郷し、全国の反政府士族(不満藩士)のグループの核になります。

 そして、1877年(明治10)1月29日、ついに西郷が挙兵し、ここに「西南戦争」が勃発します。

 すぐさま、明治政府は2月19日、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を征討総督に、陸軍中将山県有朋(やまがたありとも)、海軍中将川村純義(すみよし)を参軍に任命し、征討軍団を派遣します。

 なお、この有栖川宮熾仁親王は1871(明治4)年から福岡藩知事(後に福岡県知事・県令)を勤めており、「贋札事件」の余波で混乱する福岡を治平した功績を持つなど、明治新政府の信頼は厚く、要職を務めています。

 福岡では、1877年(明治10年)3月27日、明治政府に不満を抱く福岡藩の士族(不満藩士)約500名によって「福岡の変(乱)」が起こりますが、官軍・征討軍団によって4月1日には撃破され、多数が戦死、大半の者は捕らえられ、処刑されます。
 この時、首謀者のうち武部小四郎は、福岡藩による勤皇派弾圧事件「乙丑の獄」で切腹した建部武彦の遺児、加藤堅武もその時同じく切腹した元福岡藩家老加藤司書の遺児でした。

 そのほか、鹿児島城山で戦死した者や、「萩の乱」嫌疑で獄死した者を含め、102名が命を落としています。

 そして、一部の残党150名ほどは西郷・薩軍に合流するもの、敗退に次ぐ敗退を重ね、1877(明治10)年9月24日、西郷隆盛の切腹によって「西南戦争」は終結します。

 福岡は、幕末には勤皇党を処罰し、「福岡の変(乱)」で敗北、「西南戦争」では西郷・薩軍方に加担して敗北します。福岡はことごとく政府にたてついたということから、政府は「福岡許すまじ!」ということで、徹底して福岡を冷遇することになります。

 福岡にとっては、幕末には筑前勤王党の志士たちを処刑し、維新になると、今度は佐幕派の人たちが責任をとって切腹、解職されるなど、次々に優秀な人材を失ってしまい、結果的に福岡県は維新にも、新政府に乗り遅れることになったわけです。

 さて、「西南戦争」には、福岡からも士族(不満藩士)ら約150名が薩軍に合流していますが、後の「玄洋社」頭領となる頭山満氏は、自ら薩軍に加わる意思を持っていたものの、明治政府から〝反政府人物〟ということで投獄されており、「西南戦争」に赴く(挙兵)ことができません。

 頭山満にとって、志を同じくする同士(旧士族・藩士)の多くが「西南戦争」で命を失ったことは大きな禍根であり、生き残った身を自責し、悔恨するとともに、反政府への想いをさらに高めることになります。

 また、平岡浩太郎(「玄洋社」初代社長)も生き残るものの、禁固一年の刑を受けます。そして、安川財閥を築いた安川敬一郎(安川電機、黒崎窯業、明治紡績、九州製鋼などを設立)の長兄は「贋札事件」で藩主をかばって死刑しており、反政府の意思を強く持っていたことから、その後、「玄洋社」と結びつきが深い孫文の活動資金を支えることになります。

 「西南戦争」の翌年、1878(明治11)年、「玄洋社」の前進となる「向陽社」が創設され、1880(明治13)年に「玄洋社」が設立されます。

 初代社長に平岡浩太郎が就任、頭山満は頭領、杉山茂丸(夢野久作の父)、箱田六輔、大原義剛、福本誠、内田良五郎(内田良平の父)、進藤喜平太(進藤一馬の父)、月成功太郎、末永純一郎、武井忍助、古賀壮兵衛、的野半介、月成勲、児玉音松らが創立に参画しています。

 「玄洋社」は民権伸長と国権確立を掲げ、その社訓は、
 第1条:皇室を敬戴すべし
 第2条:本国を愛重すべし
 第3条:人民の主権を固守すべし
となっていますが、明治政府に対する反骨の意思がこの社訓に表れています。

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