Ⅲ 視察報告

2.「三池炭鉱・三川抗跡」

次に視察したのは、「旧三池鉱業所」跡と「三池炭鉱・三川抗跡」でした。

「旧三池鉱業所」跡.jpg「三池炭鉱・三川抗跡」説明板

三池炭鉱・三川抗跡.jpg旧「三池鉱業所」玄関

(1)「三池炭鉱・三川抗跡」(大牟田市「大牟田の近代化産業遺産」ホームページ参照・引用)

「三川坑」は三井三池鉱閉山となる1997(平成9)年まで操業していました。

掘削開始は1937(昭和12年)、出炭開始は1939(昭和14年)で、当初から海底炭田の掘削を前提に計画された炭鉱です。

坑口は、有明海に向かい平行に2本の斜坑(第一斜坑、第二斜坑)が掘られ、ともに幅約6メートル、高さ3・3メートルのアーチ型で、深さは2,050メートルという規模があり、「大斜坑」と呼ばれていました。

最先端の技術が導入され、最深部の坑道は海面下520メートルにもなり、揚炭はベルトコンベアによる連続出炭を行い、1944(昭和19)年には戦前の「三池炭鉱」では最大となる403万t/年の出炭量を記録しています。

「三川抗」を視察した昭和天皇.jpg「三川抗」を視察した昭和天皇。大牟田市HPより引用「三池炭鉱」の数ある坑口の中で、この「三川抗」ほど有名な坑口はありません。

一つは、「三川坑」が「三池炭鉱」の最主力坑として活躍したことにあります。

二つには、1949(昭和24)年には、戦後復興のためとして全国を巡行した「昭和天皇入坑」の記録があります。

三池鉱業所正門前.jpg三池争議は長引き、1959(昭和35)年1月25日、会社がロックアウトして三池労組が無期限ストに入る。三池鉱業所正門前。石炭産業科学館所蔵三つ目には、1959(昭和34)~1960(昭和35)年、戦後最大の労働争議-「総資本対総労働」の闘現在の正門前.jpg現在の正門前いとなった「三池争議」の舞台となったところです。

四つ目には、1963(昭和38)年、458名が亡くなる戦後最大の「炭塵爆発事故」が発生した炭坑す。

このように「三池炭鉱・三川抗」は歴史的な出来事の舞台にもなった炭坑です

1978(昭和53)年からは「三池炭鉱」の石炭はすべて「三川坑」から揚炭されるようになり、閉山となる1997(平成9)年まで採炭が続けられたのです。

「坑夫詰め所跡」と「人車」.jpg「坑夫詰め所跡」と「人車」

斜坑入口となる「第2斜坑跡」.jpg斜坑入口となる「第2斜坑跡」

炭坑には欠かせなかった「山の神」跡.jpg炭坑には欠かせなかった「山の神」跡

当時の三池の栄華を今に残す「三池炭鉱倶楽部」.jpg当時の三池の栄華を今に残す「三池炭鉱倶楽部」




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