Ⅱ 視察報告

2. 「函館奉行所」

函館奉行書1.jpg 二日目の最初は、「函館奉行所」を視察しました。
 「函館奉行所」は2010年7月29日、国の特別史跡である「五稜郭内」に約140年ぶりに復元された施設です。

(1) 担当者
○館長 田原 良信氏

(2)「箱館奉行所」とは
 「箱館奉行所」は、日本の北辺防備の拠点として設置された江戸幕府の役所です。
 当初は箱館山の麓に置かれましたが、内陸の地に移転が計画され、その外堀となる「五稜郭」と共に1864年(元治元年)に完成しました。

函館奉行書2.jpg 1868年(明治元年)、「五稜郭」は「戊辰戦争」最後の戦いとなる「箱館戦争」の舞台となり、旧幕府脱走軍降伏2年後の1871年(明治4年)に解体されました。存在した期間はわずか7年でした。

函館奉行書3.jpg 「五稜郭」は西洋式城郭として、当時の日本では最新の技術で築造されました。「五稜郭」を設計した武田斐三郎には、同時期に築造した「弁天岬台場」などとともに、「五稜郭」を中心とする城塞都市とし、外敵への防備の一方、函館山のふもとの市街地からも比較的近い場所にあり、統治の便が配慮されていました。
函館奉行書4.jpg なお「箱館奉行所」は、もっぱら蝦夷地統治にかかわる業務が行われていました。   
(3) 「箱館奉行所」の復元
「五稜郭」の完成から約150年を経て、築造当時の状況を伝えるものは、土塁・石垣、堀割、アカマツ、1棟の土蔵(兵糧庫)のみとなっていました。
 そこで、国の特別史跡「五稜郭」跡の歴史的意義や価値を伝えるには、「箱館奉行所」の復元をふくめた整備が必要であると考えられてきました。

 「五稜郭」および「箱館奉行所」は、江戸幕府が直接かかわって築造し、さらに幕末という近代の史跡であることから、多くの資料が存在していました。

 また、「箱館奉行所」が取り壊された後も、「五稜郭」は公園として一般開放されましたが、国の史跡として厳しい開発規制がかけられていたために、石垣、土塁もよく保存され、遺構も残存することになり、「箱館奉行所」再建へのハードルは決して高くはありませんでした。

 1983(昭和58)年頃から、「箱館奉行所」をふくめた「五稜郭」全体の復元整備をめざし、「函館市中央図書館」・「函館市立函館博物館」などに保存されている関連資料の調査が始まりました。

 「函館図書館」は、岡田健蔵が私費を投じて設立されており、当初から郷土資料を精力的に収集されており、「五稜郭」や「箱館奉行所」に関する貴重な資料が収蔵されていました。

 1984(昭和59)年からは、幕末・明治にかけての行政資料を多く所蔵する「北海道立文書館」・「国立国会図書館」・「東京大学史料編纂所」などで調査が始められ、「五稜郭」全体の平面図絵、「箱館奉行所」の庁舎平面図や古写真など、「五稜郭」・「箱館奉行所」の築造に関する重要な資料が発見されました。

 文献資料の調査と並行して「五稜郭」内の発掘調査も実施され、「函館奉行所」庁舎の遺構が良好な状態で保存されていたことが確認され、同時に文献資料の精密さも確かめられていきました。
 また、「五稜郭」の平面図(設計図)からは、 武田斐三郎の当初計画よりも、規模が縮小されていった変遷を知ることができました。

 「函館奉行所」庁舎の平面図からは、柱の位置や部屋割りを詳細に読み取ることができ、さらに遺構からは確認できない2階部分の間取りや各部屋の名称なども知ることができました。実際の発掘調査によるデータと照らし合わせ、絵図面の縮尺割合も正確であることが確かめられています。

 忠実な復元のため、資材はできるだけ当時の調達先から求め、施工に当たっては宮大工をはじめ、各業種の見事な匠の技が随所に見られます。
 可能な限り建築当時の材料・工法を使用し、庁舎の1/3の規模を復元。幕末から明治維新にかけてのピンと張りつめた時代の空気が感じられる貴重な歴史遺産の空間として、2010年7月29日、「箱館奉行所」の復元工事が完了し、公開が開始されました。

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(「函館奉行所」ホームページより引用 http://www.hakodate-bugyosho.jp/index.html )


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